港町ハーヴェンにて
こねずみシュテルンの冒険 前編
ねずみさんを包むように、平原ツメクサのベッドがひさひさと薫ります。ベッドは桐の小箱の中いっぱいに、グラスが傷つかないよう、ふんわりやわらかく詰め込まれていたようでした。寝返りを打つと、ちいちゃな手のひらに押されてゆるく編まれた平原ツメクサが、それは涼やかにそよぐので、ねずみさんには寝心地よいのです。
この、ミセラニシア大陸はポルトロ半島へ向かう大海原の中、海の鷹号の貨物室でまどろんでいるねずみさんが、これまで全体どれほどの大冒険をしてきたのか、今宵はほんの少しだけお話しましょう。
命を使い果たした魂を、ラケルタさまのお遣いが御許の宮へと運ぶと、偉大なるお方の流した涙しずくは星となり、夜の砂漠を転がります。転げたそいつは、アラネアさまのお遣いに御許の城へと運ばれ、偉大なる彼女の織物へと縫いつけられして、ミセラニシアの夜空いっぱいに輝くことを、貴方たちは知っているでしょう。それは天寿天命を全うした魂であっても、儚くも世へ生まれ出る前に流れた魂であっても同じことであります。
今、遥か天空は錫のたっぷり入った青銅版の色をたたえ、星々は螺鈿のきらめきを放っています。アラネアさまの織物の上で、星と星とがきゃらきゃらこすれると、薄貝の真珠層は砂よりも細かく粉末となり、新しい星の粉を生み出しました。
星の粉のもつ虹色光沢は、遠目にはぼんやりと霧のように白く、『銀河系』と呼ばれる渦潮の模様をつくり、アラネアさまのカーテンに彩りをそえます。星の粉はもともと星――幾つかの果てた命――でありましたが、こすれて生まれたそれらには、過去も、なんにもありません。
(地上の人々は、むかしからあれは次に生まれる命が順番待ちをしているのだとか、己の親になるにふさわしい者を探しているのだとか、昔から口々に勝手なことを伝え説いてきたものです。)
アウィスさまのお遣いしかはばたけぬほど高く高く上空にある大気を、すうと風が撫ぜ、夜空のカーテンはさざ波のように揺れました。山々の上をはしる雲の端がちぎれて、しらじらとした月の光に地上へ透きとおった影をなげかけています。雲の端のうち、幾つかは夜気に解けて霧になり、カーテンにしずくの模様をつけたものもありました。
星の粉がより、風がころころ運んだ霧のしずくが粉をたっぷり含んで織物の上を転げていくと、今度は『流れ星』と呼ばれる線の模様がうまれます。
その流れ星のひとつは、シュテルンといいました。
シュテルンは夜空のカーテンから外れて、平原地域の真ん中で熱心に絵本を読んでいる女の子のところへ落ちました。シュテルンは流れ星で、星の粉でしたが、女の子は命を宿すにはまだあまりに幼くみえましたし、お腹にぶつかっても、ただ光って、何事もなく終わってしまったことでしょう。
しかし、シュテルンの運命の数奇なところは、落ちたのがその子の持っている絵本の中であったところです。
彼は、ぱあっとひときわ明るく輝くと、ちょうどそのページの中央に描かれていた、一匹のねずみの姿になって、あわてて絵本の中から飛び出し、ちょろちょろと草の海へと走り出してしまいました。
時は、もう何年も前のこと。それからずうっと、小さなシュテルン――ねずみさんは大冒険を続けています。
さて、ごうごうと波の音を響かせていた海の鷹号が、があんと大きく揺れました。錨がぞろぞろいう鎖と共に水底へ沈みます。太い綱が大きな繋留用のボラードにかけられ、船員達がどかどか降りていく足音で、シュテルンは目を覚ましました。
くあっ とあくびをして、背中とふさふさの尻尾を伸ばすと、なめた両前足でていねいに顔を洗い、がく筒と寝癖とをとります。
実のところ、シュテルンは自分がなぜあんなにも揺られていたのかわからないでいます。平原ツメクサの花に鼻先をつっこんで、幸せな心地で眠ったところまでは、覚えているのですが……。
すっかり身支度をととのえたシュテルンは、尻をグラスにはめなおしました。グラスの奥では、よその箱から失敬したチーズのかけらが小さな後ろ足にあたって存在を主張しています。そしてそのまま、またうとうとと平原ツメクサを食みながらまどろみました。
驚いたのは、自分のおさまっている小箱が船員に運ばれていくことです。まぶしい陽光が水面でますます跳ね、桐材のすきまから彼の目を刺しました。
「!」
小箱の内側に、海老茶色のインクで声にならない小さな悲鳴が書き出されます。
「ん、何だこの箱動いて…でえっ?!」
船員が蓋をちょっと持ち上げ、荒波にもまれた鋭い眼光で小箱の中を射抜いたとき、もうシュテルンは限界でした。べったりと感嘆符を船員の鼻先にまきちらしながら、ウミネコのくちばしよりも速く飛び出し、指のすき間をくぐり抜けて、海の男たちの足の上を、荷の間を駆けぬけます。
「うわっ!」
「何だぁ!?」
「よそ見してんじゃねえ!」
「硝子品の周りで誰かひっくり返ってやがる」
「ティケラスの群れでもきたのか?何だ?」
「うるせえぞ手前ら!」
獣人ですらないシュテルンは、つぶされまいと必死で靴の間を縫うよう走ります。目をまわしそうな恐ろしさの中、鼻先をぶつけたのは、他の靴と同じく塩で白っぽくなった、けれど他より上等そうな靴を履いた男の足元でした。
「おいおい、ただのねずみだろう」
シュテルンの背をつまみあげようとした指の、なんと硬いこと!
錆除け呪文のかかった金属の義手に、シュテルンは以前とは比べ物にならないほどたくさんの感嘆符に疑問符を混ぜ、べたべたインクをとばして震えます。指先がシュテルンにつくかつかないかというところで、「ほう」インクに思わず手を止めた男から、素早くはなれました。
「旦那!積み荷がやられてます!上物のチーズがみんな穴だらけだ!」
後からあがった報告の声に、義手の男は眉間にしわをよせ「リストを確認してくれ」と短く指示を飛ばします。「リ、リストも穴だらけです!チーズの文字だけやられてる!」
とびかう声すら恐ろしく、シュテルンはふり返ることなくぴゅうと駆け続けます。たなびく透明なひげの先に、「c」の文字が引っかかっています。もちろん、これはチーズの食べかすです。シュテルンは食いしん坊でした。
魚をつついていたティケラス鳥の一団に突っ込むと、彼らの声しか聞こえなくなります。ティケラスの群れにさえぎられ、とうとう彼は、船員たちの手の届かないところまで逃げのびたようでした。足元はなだらかな木の板から、行儀よくならんだレンガに変わって、――おや、白魚のようなものに乗り上げました。ぐんと視界が高くなります。
「?」
シュテルンがぺたりと小さな疑問符を吐くと、それを受けて、白魚のごとく白くたおやかで、先にちょんと桜貝の爪をのせた指を持つリリー・ハーヴェンが、くすぐったそうに笑いました。
「おかえりなさい、アーチー。それで、この子はお土産とお客さまと、どっちかしら?」
海辺の街、ハーヴェン。時は、防波堤に砕けた波が、ねずみさんのようにぱちゃぱちゃ跳ねまわりまわる午後のこと。コマティ商の女の子が、街を後にして間もなくのことです。
さあ、またひとつの大冒険です。