砂漠〜荒野 ザイデン街道にて
第10話 前編
荒野を風が吹いてゆく。
赫々たる砂肌は一粒一粒がはるか海原に沈む珊瑚のように光り、くらくらする陽炎を放ちながら艶めかしく配列を変えた。太陽光は砂原にちらばってあちこちに跳ね、旅から旅の行商人へ、蒸気都市の溶解炉でばちばちと上がる火花を思い出させた。
「しけてやがる」
行商人の懐、腰元、あちこちから装備が外され、水入りの皮袋や色とりどりの香辛料、大の大人が一握りした手に収まるだけの大金貨が奪われていく。「ねえ、そのマント、魔法が仕込まれてないかな。見たことない刺繍」よく通る娘の声に弾かれて、見た目よりもやわらかい毛足の手がマントにかかった。行商人を取り囲む背の高い獣人たちは、レオパルディオ族だろうか。それにしては種の特徴である斑点模様が見えない。全体的に黒い毛並みは艶々として美しく、砂に渇いて一本一本が細く痩せていた。
行商人は地に膝をついて無抵抗の意思を示す。深く被ったフードの下から久しぶりに上がった抵抗の声は、未だ幼い色をしている。
「身包みを剥ぐのはご勘弁願いたい。この布地は家族がのこしてくれた形見でして」
「――嘘ではないな」
傾いた幌馬車の中から、ひび割れた爪先で指輪をくるくると撫でるのが見える。毛皮の上からでも分かる年嵩らしい貫禄は、彼が群れのリーダーであることを示していた。幌の奥は暗くてわからなかったが、汗と糞尿の混じったすっぱい臭いが鼻をかすめ、彼らの群れが表に見える者ばかりでないことを伝えている。黒い毛皮を骨にそのまま巻きつけたような痩せ細った獣人がごろごろと転がっているのを想像して、行商人はゴーグルに隠れた目を逸らす。水入りの皮袋を運んでいった背を丸めた少年は泣きそうな顔をして奥へと消えた。
「あとのわたしに残っているのは、旅の仲間くらいのもので…」
つい、と行商人が見やった岩陰に、トットのくちばしが見え隠れしている。水場でたっぷりと飲んできたばかりだ、いくら相手がレオパルディオ族といえど、彼を捕まえられはしないだろう。相手の手元にあるのが“あれ”なら、隠し立てせず手札を曝していくのが常套だ。
「あの貸しトット、危ない目に遭うようなら借り手を見捨てて逃げ帰るよう、ようく厳命された賢い子ですよ。貴方達がいくら俊足であっても、これだけ離れていれば、彼が逃げ切るでしょう」
「――嘘ではない」
「お金も、もう小銅貨のびた一枚たって持ってやいません。このマントの下のかたびらだって、メッキビルのよだれ一滴たりとて掛かってないです」
「――嘘ではない」
「そろそろ離して頂かないと街に着く前に死んでしまいます。老いたオジジが、わたしの帰りを待っているのです」
「――嘘ではない」
「わたしが死んだら、オジジは明日からなんとして生きていけるだろう」
低い唸り声が溜まる岩場で、とうとう行商人は黙り込んだ。「オジジに逢いたい」最後にぽつりと漏れたそばから砂地に染みて消えていく呟きに、嘘の色は一切無いのだ。
幌馬車の奥で、深い嘆息が指輪の魔石を湿らせた。行商人を取り囲む、まだ体力の残っているらしいレオパルディオの若者たちはぴんと耳を立てて、リーダーが判断を言葉に換えるのを待っている。ある者は、もう行商人の手を引いてを立たせてやっていた。
「――我々が憎むのは汚らわしい商人であって、素直な子供ではないな」
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一歩脚を踏み出すたび、鉤爪は焼けた砂に埋もれ、がっちりと巻きつけられた防熱呪文入りのバンデージの端が捲れていくというのに、そのトロッタロットはくるくると喉を鳴らして嘴を振る。「どうどう」寄せた腕を甘噛みさせながら、まだ走り足りないらしいレンタル制の相棒を制するのはアカリ・トトゥルムである。コマティ商からトット商に鞍替えして早三日。砂漠攻略も半分を過ぎ、カーバイド光に仄照らされる髪は赤銅色に日焼けていた。
手持ちのカーバイドランプを消してしまうと、あちこちで景気よく夜のカーテンを舐めんとする篝火が、手を打ち客を寄せるようにパチパチ爆ぜた。炎の精霊たちは皆々篭に枝垂れかかって、空気中のエチルアルコールを巻き上げるのに躍起なのだ。アカリも肌身を刺す寒さに酒を舐めることがあるが、それにしても、夜とはいえこの乾いた砂漠や荒地でわざわざ喉を焼こうとは思わない。ますます渇きが増しはすまいか。転がる酔っ払いをまたぎながら、今度水を売るときに酒を混ぜてみてはと悪い考えが過ぎり、頭をぶんぶん、振り払う。
アカリが目を回している耳元で、わっとひと際大きく酔漢達の笑い声がわいたと思えば、その内の一人がよろけてぶつかる。「わあ」小さなアカリはトットにしがみついて転ぶのを免れた。
「おっと……おいボウズ、どこ見て歩いてんだァ?」
「やあ、これは申し訳ありません」
アカリがぐいとゴーグルを上げて微笑むと、相手は彼女の顔を覗き込み、ニ、三度瞬いた。自分の目元を擦うと酒瓶を傾けて、些か小さくなって声で「……アカリちゃん?」と問う。その声に、アカリはこくこくと肯く。何だなんだと表に出てきた酔漢達がアカリとトットを取り囲む。
「して、何時から商業連合ザイデン街道支部は酔いどれの掃き溜めになったんです?」
手綱を離してくるりと回る彼女のマントから砂が落ちる。後は、他のどの都市の商業連合会館へ訪れても同じ歓声と歓迎と乾杯の声が響くばかりである。「どうどう」突然わき立った商人達に驚いたらしい相棒の首筋を掻いて落ち着かせると、手綱を商館員に預け、ひらりひらりと伸びてくる手をかわして歩く。力任せに頭を撫ぜられると背が縮む気がするので遠慮願いたい。
「豚花蝙蝠、丸焼きで」
カウンター席に腰掛けて毛を毟られた豚花蝙蝠がぱりぱりに焼き上げられていくのを心待ちにするアカリの頭上で、小さな商人の無事を祝う酒杯が打ち鳴らされ、ぎらつく財力と野心を固めたような金の指輪がわかりやすく煌めいた。砂漠の商人は、蒸気都市のそれとはまた違った気質を持つらしい。彼らはみな、強欲で、命を危険にさらしてまでキャラバンを組み、商路を往く。
彼らが歩くのは、境目の森から荒地と砂漠を通り、平原地域、果ては蒸気都市グランノルディカまでを結ぶという大商路である。かつては森で織られた絹を運んでいたとか大商人ザイデンが大枚叩いて拓いたとかいい、付いた名がザイデンの大街道だ。鉄道網が広がりつつある今尚、ミセラニシア大陸の主要商業路として道中に7つの商業連合会館が構えられている。欠番を含めれば、全部で10だ。
アカリが滞在しているここは、ザイデン街道の第5支部、つまり砂漠の真ん真ん中である。
手を伸ばし、隣の席からオウギサボテンのピクルスを摘むと、マントの裏からぷちんと一枚硬貨のように平べたいものを換わりに滑らせる。酒が回っても目敏い隣席のドワーフはピクルス代として差し出されたそいつを睨みつけ、口髭を揉みながら眼前にかざした。
「…アカリちゃん、こりゃ何だね」
「貝殻ボタンです。ハーヴェンの街で、上客からお代がわりに良い仕入先を口利きしていただきました」
カラカラフルーツの特製ソースを豚花蝙蝠に絡める手を止める。ばさりと脱いだマントをテーブルの上に広げ、裏打ちした布を剥ぐと、そこにはみっしりと隙間なく白っぽいボタンが縫い付けられていた。酒場の灯にてらてらと深みのある光沢を見せるさまは、まるで蛋白石だ。
野次馬が息を呑む隙に脂のしたたる肉を大皿から引き上げ、堪能するとたまらなかった。ソースの表面が油分にうっすらと白濁しているのを、また熱い蝙蝠肉で溶かす。
アカリの声は上機嫌である――先の盗賊とのやり取りを思い出すまでは。
「何せ商人の守り神たるコマティを置いての旅ですから、身を守るに越したことはない。さりとて、わたしに鎖帷子は重過ぎますし、砂漠で金属なんて身にまいていては煮えてしまう気がしまして。貝殻なら硬貨を縫い付けるより軽いし、財布に入れなければそれだけで盗賊よけになります。……ここらの盗賊は真実の指輪まで身に着けるようになったらしいですからね、用心ですよ」
「真実の…ああ。スクラーヴェの旦那、しくじったなあ」
上等な幌馬車が数台傾いでいたのを思い出す。「スクラーヴェさん、ですか?」
「アカリちゃんにゃまだちと早いな。罰当たりの名前さ」
「世の中にゃ魔女様に顔向け出来ないような商人もいるってことよ」
「あの業突く張り、手前の商品に噛み付かれたんだな」
「おうい、アカリちゃん。賊が出るなら詳しく知りたい。地図に書き込んでくれえ」
「しっかし、よく無事に逃げ切ったなァ。偉いぞ!」
ぐいぐい頭を撫ぜてアカリの足りない背を縮めようとする手を避けながら、薄い羽を噛んで地図の前へと歩く。スクラーヴェというのは奴隷商だろう。それぐらい、旅慣れたアカリには当然検討がつくというのに、年嵩の商人たちはこぞって彼女を子供扱いしたがった。子供は無垢だと信じているのだ。
さて、ため息を吐くアカリの頬を、紫煙が撫ぜた。くゆる水煙草は、商館よりも娼館に似合いの匂いがした。ラミア煙草だ。――と、いうことは。「あれま」のろまな彼女が立ち止まるより早く、足元を馴染みの鱗がとぐろを巻き、抱きしめると同時に締め上げた。
「ぐえっ」
「アカリちゃあん、腹ごしらえは済んだでしょう?アタシらのお店に泊まっておいき?ねえ?」
「姐さ…ぷあ!舐めないでください!」
うっとり興奮気味に瞳孔を細める半身蛇人のラミアに、商館の人波がざっと引く。入れ替わるようにぞろぞろと雪崩れ込み彼女達を取り囲むのも、やはり放浪ラミアの女性たちである。皆、色とりどりに透ける踊り子のような衣装を纏い、金の台座に大小の魔石を光らせている。鱗に縁取られた宝玉は殊に大きく、珊瑚色の肌を艶やかに飾る。
「お久しぶりです、リーベ姐さん」
リーベと呼ばれた放浪ラミアはしゅうと微笑み、尾に腰掛けさせたアカリへそっと耳打ちを一つ落とした。「オンバ様が呼んでる。もうそろそろ来る頃だからって、アタシらを遣いに寄越したのよ」頬に塗りたくっていた日除け泥粉を拭う指が、きらびやかな爪の長さに反してあんまり優しいので、アカリはもう、くすぐったそうに答えるしかない。
「よござんす」
かくして、舞台は放浪ラミアのテントへ移る。