平原地域マクスウェル牧場にて
第9話
度重なる値段交渉にアカリが折れないと、ユノはいつもこんなことを云う。
「あたしとアンタの仲じゃないの!」
商談以外で聞かない言葉に、アカリはからりと笑ってしまう。
「ぜんたい、どういう仲ですか?」と。
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初め、“それ”は丘陵だと思われていた。
なだらかな平野がどこまでもつづく平原地域において、丘はめずらしくない。獣人の村々が美しいパッチワークを織ったものや、こんもりとした林を乗せたものが、そこここに点在している。緩やかな四季に彩られ、色合いを変えていく丘陵は、果てなく続く地平線を見渡すのに絶好のポイントだった。ただ、それを載せた地図というのはあまり無い。なだらか過ぎて平地とそう区別のできないものが多く、そもそも丘それ自体が多すぎて描ききれないのである。把握しているのは、その付近に暮らす者たちぐらいのものだ。
旅から旅のアカリが見抜けなかったのも無理はない。
ぶくぶくと脹れていく“それ”の名は、まさしくシングという。平原のものだか湿地のものだかわからない粘性動物と合わさり、肥大化し、卯の花腐しを飲み込んでますます体積を増した“それ”は、今やマクスウェル牧場の広いパドックにぽっかり大きな影を落としていた。
アカリ・トトゥルムは切り株から身を起こし、頬杖から握りなれた護法杖に持ち帰ると、次いで、隣で四肢をちぢこめ耳を伏せていたソウゲンオオカミの尻を強かに蹴り出した。「ユノさんを呼んでおいでね」蹴られたソウゲンオオカミはばっくりとアカリを食い殺すでもなく、腹を地にするように身を低めて駆け出した。遠く小さくなっていく彼の尾が丸まっているのを見て、さすが闘技場の常連は己の実力を弁えていると関心してしまうほど、その反応は素早い。
「さて」
ばらばらと篠突くような雨礫をはじく赤い被衣、その内側へすいと手を入れ、両肩にかかる布を背のほうにばさりと払う。足元の杖を拾って地に突き立てるアカリの動きは決して速くはなかったが、光魔法の結界は間一髪のところで、ばちんという水圧を弾いた。
アカリを中心として、結界は半球状に展開し、ほの光る金字で綴られた呪文を天球技の紋様のごとくその表面へめぐらし、回る。ゆらゆらめぐる金文字が、シングが振り回す水流を弾く、弾く!
結界表面を白くけぶらせる雨の水流が相手の攻撃の威力を和らげていたのは、アカリにとって幸いだった。そうでなくては、この質量の攻撃を受け流せる筈もない。結界の強度はそう高くないのである。杖を握り直す。
「わあっ」
彼女の足元がぐらりと揺れる。崩れる。
アカリへの攻撃が結界に阻まれると分かるや、シングは手段を替えた。
シングが腕――そのシングはすっかり脹れて、元がどんな生き物を模倣しているのかすっかり分からなくなっていた――を伸ばし、アカリの結界を地面から掘り出したのだ。地上では半球状にみえた結界は、彼女を中点に、地面を取り込んで球状をしている。まあるく切り出された地面ごと、アカリはシングの腕にさらわれ、地上からぐんぐん持ち上げられる。ほとんどシングに取り込まれた体である。空が泥の身体に翳った。
アカリは膝をついてはいたが、杖にしっかと縋りついて持ちこたえ、その場を決して動かなかった。彼女の結界は、一歩でも足を踏み出して移動すれば、サボンのように割れてしまうのだ。
「まあ、これはこれで好都合ですが…」
にたにたと覗き込む大きな目玉がアカリを検分する。彼女は意に介さず、服の袖口をごそごそとやり、「あった。ありました」と細長い水晶型の瓶を取り出した。
水色にまたたいて発光する瓶に語りかけながら、コルクを引き抜いていく。
「やあ、助けてくださいね。いえいえ、わたしのこともですが、ほら、そこのお仲間をですよ。見えますか?」
シングの肋骨のあわいから、取り込まれたスライムの中、飲み込まれた水妖精が溺れているのを見つけると、コルクは甲高いのように悲鳴吹き飛んだ。結界のうちから、シングが放ったものより遥かに勢いよく放たれた水流は鉄砲水か水鉄砲かわからないありさまで、シングの身体に風穴を開ける。“それ”の背から泥水が噴出す。アカリが反動で弾き飛ばされる。瓶詰めになっていた水の妖精は、“それ”に取り込まれていた同胞を抱き上げてぐんぐん空へとのぼり、ぴゅうとそのまま何処かへ消えてしまった。水色の残光だけが空に線を引いている。
「がぼっ…!」
空いた隙間を埋めるように、今度は割れた結界ごとアカリがシングの体内に引きずり込まれる。鼻から泥が入り込む。唇に砂利が痛い。開けば、肺まで土砂に呑まれて溺れそうだ。が――ばしゃん!大きな音を立てて“それ”の身体は崩れた。
元々、シングはそう大きなモストロではなかった。取り込んだ粘性動物が水スライムとなり、雨水を含んで脹れていたのだ。その身体も、今や妖精を失って水と分離した。ばしゃん!ばしゃん!見る間に“それ”が縮んでいく。ついにシングは、五分の一の大きさにまで小さくなっていた。
水と一緒に投げ出されたアカリは、地面でげほがほ泥水を吐き出している。喉まで泥が押し寄せることはなかったものの、鼻の奥がやたらと痛い。手でちんと鼻をかんで、足元の雨水溜まりに映った影へ、手を振った。
「え゛ほっ……助かりました、ユノさん」
ワイバーンの翼が篠突くような雨を繁吹く。飛竜に跨ったユノの姿は、地上から見れば、なんだかハルピュイアにも似ていた。戻ってきたソウゲンオオカミのボーンズが吠えると、シングはぶるぶると前後に大きく揺れ、形を変えていく。身体を暴れさせながら、それは、頭部がむやみに長い、毛むくじゃらの人型に落ち着いた。ゆっくり、コマティの歩みよりゆっくりと、こちらに近づいてくる。
しかしながら、不気味な“それ”より、今この場で最も恐ろしい者は何か?
「…はっ。ち、違いますユノさんわたしじゃないです!この惨状は、それの仕業です!」
「そう」
ぽつりと降るようにユノが云う。「ジェノ」と呼ばれたワイバーンは、首を丸めてより激しく翼を動かし雨を扇いだ。空がびりびり震えるようだとアカリは思う。
「人様の牧場を泥だらけにしてんじゃないわよ、誰が掃除すると思ってんの!――イズナ落とし!」
ユノに脇腹を蹴られるが早いか、ジェノは忠実に技を繰り出す。急降下してシングを掴み、宙でひるがえって、それの脳天を地に叩きつけた。シングは打ち付けられても尚ぐねぐねと身体をくねらせていたが、間もなく断末魔をあげて崩れ、地に溶けた。雨ざらしに、折れた骨だけが洗い流されて残っている。
「おおお」見世物のようにあざやかな戦闘に、アカリも思わず拍手を打つ。隣でボーンズも高らかに遠吠えをしていたが、ユノはまだ機嫌が悪いらしい。「うるさい」と鉄拳に脳天を打たれて、哀れソウゲンオオカミはシング動揺ゆっくりと地に臥した。アカリはぱっと拍手を打ち止めて、倒れたボーンズの介抱をしながらユノをねぎらった。
防水魔法の切れかけた前髪を濡らしながら、ユノがどかりと切り株に腰掛ける。
「お帰りなさい、ユノさん。助かりました。お散歩楽しかったですか?」
「あのねアカリ、こんな雨曇りの景色、どこまで行っても楽しいわけないの」
「ご機嫌斜めですねえ、見回りお疲れ様です」
「うん」
「ちょうど交代の時間です。見張りはデストロ君にお任せして、お風呂にしましょう」
「そいつ、ジェノよ」
そうでしたっけ。アカリはその辺の村娘がするように、ぺろりと舌を出す。
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「お湯いただきましたー…ボーンズ君、お手ですよ」
「アカリ!アンタ前もそうやって頭から喰われそうになったの忘れたの?」
「その時ユノさんにされたお仕置きを、彼は忘れてないだろうなあと思ったんです」
「…アンタのそういう計算高いところ、付き合いきれない」
「そう云いながらも付き合ってくれるユノさんが好きですよ」
「あんたが金持ってる限りはね!」
計算高いのはどちらだろうと、ボーンズが首をかしげる。
風呂から上がると、雨に打たれたユノの機嫌も顔色も、ぐっとよくなっていた。アカリが二番風呂を堪能して戻ってくるころには、ほとんどいつもの様子に見えた。
アカリ・トトゥルムにも急ぐことはある。例えば、レイニーウィークの前にマクスウェル牧場に辿り着くことだ。
レイニーウィークを越えれば夏が来る。夏の砂漠越えが過酷なのは云うまでもないが、雨季の砂漠もまた辛い。ざんざんと降りしきる雨が大河となって地図を描きかえ、ごうごう唸って旅人の行く手を阻むのである。
初めてマクスウェル牧場でトットを借りた時だったか、何度目だったかはとんと思い出せないが、グランノルディカを発つのが遅れてたまたまレイニーウィークに到着してしまったことがある。その時、グランノルディカに戻ろうにも大荒れ、砂漠に進もうにも大荒れの空模様に「仕方ない」からと、雨が上がるまで寝起きさせてもらったのだ。この、コマティ舎のあるアカリにとっては他に類を見ないほど素晴らしい牧場で。おお、はらいそ!
以降、すっかり味を占めたアカリは毎回マクスウェル牧場をレイニーウィークの初日に訪れ、「仕方ない」「仕方ないですねえ」と毎日大金貨6枚の宿泊費を支払っては、幻獣やモストロの世話を手伝って至福のひと時を過ごすことに決めているのである。今回もそうだ。
濡れた花のにおい、雨雲の向こうに薫るむっとするような草いきれ。草原地域の緩やかな四季を愛するアカリは、レイニーウィークが好きだった。ぐずぐずとした湿気は厄介だったが、コマティの連れは腐敗と発酵の妖精に融通が利くから、恩恵を受けるアカリもふんわりと丸っこい黴すら可愛らしいと思う。オジジも、青々と生気を増した草を食むのが好きそうである。
しかし、同じく草原生まれ草原育ちのユノはそうではないのか、この時期になると決まって少し顔を翳らせるのだ。アカリには不思議でならない。「(きっと、牧場の雨支度が大変なんだ)」ひとまず、そう納得している。
実際、今年もユノはぴりぴりと辺りを警戒して、モストロ達と交代制で牧場の見張りに忙しい。コマティの毛を揉みながらそれを手伝うに、アカリはやぶさかではない。
「ユノさん、夕餉はなんでしょう?」
ボーンズが見張り番に追い出されると、アカリの手は癒しを求めてラムートン皮のラグに伸びた。爪先でがりがり掻いてやると、毛皮も気持ちよさそうだ。
「豆のスープと、オイルサーディンのグラタン」
「また保存食ですか…!ユノさんは何のために見回りに出たんです!」
「見回りのために決まってんでしょ!」
「わたし、ケルピーが食べたいです。お肉がいいんです。狩ってきてください。みんなもきっとそう思ってます」
「よしわかった、アンタをワイバーン達の餌にしましょう。あいつらもきっと喜ぶわ」
「みんな、お肉より飼料がいいに決まっています!」
「せめてチーズは多めにのせましょう」運んできた荷の中から特に大きなチーズの塊を引っ張り出して、アカリはユノに手を伸べる。ぱしんと手渡された卸し金で撫で続け、たっぷりと削り出した。砂漠越えに持っていけない食材は、このままユノに買い取ってもらう算段だったが、ええいままよ。使い切るのも悪くない。
ユノは手早く石竈の支度を整えていく。
「ユノさんのところは牧場だから、毎日お肉が食べ放題なんだと思ってました」
「そりゃ、ボーンズ達に狩らせはするけど」
「そういう牧場じゃないのよ、うちは」竈に火が入ると、冷えた空気がぼかぼかと暖かくなった。年季の入った灰かき棒を引き出す。額に浮かんだ玉の汗を拭うと、おもむろに言い返した。
「アンタだって、金稼ぎのための行商じゃないんでしょ」
グラタン皿を差し出しながら、アカリはふっくらと笑ってしまう。
窓際で、水晶さざれの沈む桶の中、残りの妖精瓶がちゃぷんと小さく音を立てた。
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いつだったか、彼女はアカリに旅の目的を尋ねたことがあった。
会うたびに稼いでいるようで、時に1フィルの得にもならないことをするアカリが不思議に見えたに違いなかったのだろう。そのくせ、ふらりと世界を巡り、命を危険にもさらす。本を買い込むためだけではないらしい。家族を探すためだけでもないという。
「そうですねえ、わたしとユノさんの仲ですから」
特別ですよと、打ち明けてきたアカリが真剣な顔をつくるのを、ユノはおかしくて笑い飛ばしたものだった。
「いったい、どんな仲だってのよ!」と。