第8話


『空気のさかな』を知っているだろうか。
そいつは水中をぷくりと泳ぐ。



 アカリの足元をちゃぷちゃぷと光る、波の影がゆれている。ポルトロ港から程近いその町は、噛めば空気も塩漬けになっていてしょっぱかった。耳元の編込みが砂音を立てる。

「こんなに塩がたくさんあると知っていれば、お肉をもっと運んできたのにね」

 しゃがみこんで、水面に声を掛ける少女は、傍から見ればまるきり迷子の体だったが、それにしては心細さも感じさせずふんわり潮風をふくんで笑っていた。
 その水面ではねるのが、『空気のさかな』である。ぽこぽこと口先を上下させる様は、まるで息継ぎをしているかのようだが、れっきとした魔法機械で、生き物ではない。その透き通った身体は魚型の硝子盤を二枚、パイのようにくっつけて作られている。そのふち、フォークの背でも押し付けられたように刻まれた文字が、熱魔法の呪文となって彼を生きいきと泳ぎまわらせているのである。
 通りすがりの水の精や風の精は、透明な魚を面白がって、あっちへこっちへ連れまわしている。



 アカリが行商路を離れて、一年は経過したころだったろうか。世界の出入り口と名高いポルトロ港を探しても、トウカ族は誰一人として見つからなかった。アカリと似た風体の集団が乗らなかったかと尋ねまわったが、どこの船も知らないという。最後に『はらいそ』往きの便がないかと探しかけて、やめた。
 それ以降というもの、アカリは相棒を商業連合会館ポルトロ半島支部の裏手に泊め、自分はその二階の部屋を借り、一月半ばかりを読書で潰して過ごした。数日前にようやく旅立って、ハーヴェンという港町まで辿りついたのが昨日のことである。

 旅のお供に買い込んだ本の中に、蒸気船と熱魔法に関するものがあったのは、たまたまだ。コマティのゆする荷台の上、読後のアカリはしばらく正座で黙考熟慮したかと思うと、ぴょこんと起き上がってポルトロ港で買い叩いた特産品を散らかし始めた。ナイフでがりがりと硝子を傷付け、細くした金属線を対価にして、オジジの毛足にうもれていた熱の精霊を呼びつける。指示した熱魔法の式を刻んでもらうと、土産屋で280fだった硝子細工はよく動いた。宿屋の前で、ぴょんとアカリの手を勝手に飛び出ていったくらいだ。
 彼女はときどきこうやって、即興の工芸品を作りたがるところがあった。



 ところで、アカリの隣には、精霊たちと一緒になって、『空気のさかな』をつついている淑女がいる。

「それで、この子の名前は何というの?」
「『空気のさかな』です、リリー奥さま」
「まあ、空気の」
「ええ、空気の」

 白魚のような指先で、ちゃぷちゃぷと生まれたての発明品を撫でると、リリーと呼ばれた淑女は屈めた身体をよろめかせ、とうとう尻もちをついてしまった。
 覚束ない泳ぎ方がかわいい、と彼女は『空気のさかな』を愛でていたが、彼女の歩き方こそどこか覚束なさが残るなとアカリは思う。思うが、口には出さない。生まれて十数年、あるいは二十数年経つであろう女性にいうには些か妙な言葉だと、商人の理性がとどめたからかもしれないし、ぴりぴりとしみる唇の端が痛かっただけかもしれない。アカリは口を指先でわしわしこする。なんだか動物が顔を洗う動きに似てしまった。

「素敵ね。アカリちゃんは、もしかして魔法技師なのかしら」
「いえ、奥さま。読んだ本に、熱魔法式があったのです。わたしは少しばっかり、それをおもちゃにしただけですよ」
「でも、この子はどこまでも泳いで往けるみたい」

 白砂の浅瀬も、珊瑚の棚も、あたたかな潮のうずも、海底洞けつ路を抜けて、光の粒みたいな泡のオーロラ、難破船の一等船室も、深海の魔女様の枕もとまでも。謡うようにリリーは云った。
 すいすいと海を指す指に、アカリは冒険小説で読んだ海底世界を思い描いて、そういうものかとふんふん肯く。

「ご所望でしたら、お譲りしますよ。旦那さまにおねだりください」

 さて、悪戯を見咎められた少女のように少しばつの悪そうな、それでいてどこか擽ったそうな顔をするリリーについてアカリは詳しくない。
 つい先ごろ出逢って、彼女が夫と喧嘩して屋敷を出てきたのだと本人の口から聞かされなければ、すれ違っても気ままな散歩に出かけた未婚のお嬢さんとしか思わなかったに違いない。実際、彼女はそんな風で、ごろごろと打ち上げられたように寝そべる猫たちをよしよしと可愛がってまわっていた。

「だってね、アカリちゃん。アーチー…夫は、しばらく内陸の方に出るというの。仕事があるなら仕方がないとはいえ、私のことは連れて行ってくれないのですって」

 夫とグランノルディカの街を歩いてみたかったのだと顔を膝に埋める。拗ねたような物言いだが、その実、素直じゃないのは夫のほうだと言いたげである。話によれば、彼女はそう身体が丈夫でないのだという。

「海のほうの生まれなの。あんまり遠くまで、まだ故郷を離れたことがないのよ」

 平気なのにね。気遣って、頑固になってしまっているの。
 細める目は、なんだか慈愛に満ちていた。色恋沙汰に縁遠いアカリでなければ、ぽうと頬が赤くなってしまっていたかもしれない。
 ふうん、もひとつ頷いて、ぱしゃぱしゃと『空気のさかな』をいじめると、アカリはのんきな旅行者からコマティ商へ、ゆっくり戻ってこう切り出した。

「ううん…。それでしたら、そうですね、こうしましょうか。奥さま、わたしが奥さまにひとつ海をお譲りしましょう」
「まあ」
「旦那さまにおねだりして、それがあれば安心だとするのはいかがです。喧嘩には、落としどころが要ります」

 今度は何を見せてくれるの。リリーの声に、ふっくらとアカリの服が潮風をはらんだ。貝殻をちょんと拾うと、アカリは地べたに図面を描いていく。

「わたしは魔法技師でこそありませんがコマティ商ですから、奥さまのお役に立つものをお売りすることができるかもしれません。むかしから商人は欲深者です。色々の知恵をしぼって、陸地に桶で人魚を、砂漠に海を運ぶことだって、考えついてきたのですよ――…」

 その可愛らしい痴話げんかの顛末を、アカリはまだ知らないでいる。



 グランノルディカ到着三ヶ月前 港町ハーヴェンにて

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