グランノルディカ商業連合会館にて
第7話
「さあ、アカリちゃん。時間だよ」
節くれだった手に手を引かれて、アカリの膝から『魔法鉄――その不思議――』やらアノニー・マウス最新グランノルディカ版の『ガイドミセラニシュアン』やらが転げ落ちる。本の地層は、編みかけの鎖かたびらの上でぱたんぱたんと居住まいを正し、静止した。
狩猟祭の熱も冷め、もうそろそろレイニーウィークの分厚い雲が垂れ込めてくるころのことである。アカリは未だのんびりと商業連合会館本部の二階に陣取り、細々としたクエストを片付けていた。やれ平原植物で染料を煮出せ、それ鎖かたびらの鎖輪を編めと、安全かつ比較的駄賃の弾むものを回してもらえるのは、アカリが商業連合に所属しているからこそであるし、この小さな女の子の次なる旅費を早いところ稼がせてやろうと連合中の爺婆たちがこぞって小遣いをやりたがったからであった。そのくせ商人にただで金を手渡す発想はないので、こうして依頼を経由させる必要があるのである。そんな思惑を知ってか知らずか、アカリに旅立つ気配は一向として見られなかった。
積み上げられていくのは小銭と餞別、新刊の山ばかりである。
ところで、アカリは好き嫌いなくよく食べる。平原スイバをあみあみと噛んで一日を過ごしたかと思えば、大の大人、それも熊人の大男が食べるような量を一食分ぺろりと平らげてもみせる。その食いっぷりのよさから指名を受けた、商業連合の内輪にしか回らない裏クエストが今回の仕事だ。それがそろそろ時間なのである。
アカリの腹時計も、ちょうど頃合いだと響く。
「脂の乗ったモストロ料理は、もう飽き飽きですよ」
ぽそりと云うと、爆発するように豪気な笑い声が返ってきた。遅れて耳を塞ぐ。
裏クエスト――連合所属料理店の新作の味見を開始して、早三日。アカリの舌も、その評判も、随分肥えたものである。
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彼女が「おいしいです」と肯けば、その料理店は夜のカーテンがばたばたと風にひるがえるほど賑わった。「これはちょっと」とフォークを止めれば、並ぶメニューは閑古鳥料理のそれへと変わり、慌てた店主がなんとか小さな口から解決策を訊き出そうと菓子を積み上げた。――そんな噂が語られるのも、商業連合会館の食堂と商人同士の話の中だけであるから、アカリの日々は相変わらず静かで、平穏だった。
実際、その噂話は云い過ぎだ。アカリは普段黙っている自分の好き嫌いを、仕事だからと口に出してみただけなのだ。草原育ちの彼女の鼻は、雨や風のにおいを嗅ぎ分けるのがすこぶる得意で、それは食材や料理の目利きにも役立つ。生臭いものにはくさみを取ってほしいと訴え、ひりひりと塩辛いものにはスパイスを減らすのがいいと告げ、ごちゃごちゃとしてよくわからないものには、これこれの材料を足し引きしなさいと、感覚で物を云うわけである。
今日の店の主人にはあれこれ我が侭を云ってしまったが何だかやけに感謝されたなと、オジジを梳りながら疑問符を飛ばす。オジジの振った尾に跳ね返された疑問符はそのまま、報酬のドロハゼを食堂に運ばんと、ガラス瓶のおさまった魚籠を構え直した。ちゃぷん、ぽん。近頃、この商人はコマティよりも物を運び歩いている。
「今晩の報酬です。鮮度よく、ドロ抜き済みという話です。よくしてやってください」
「あいよ」
寡黙な料理長はむっつりと押し黙りながら下ごしらえを済ませ、棚の瓶漬けから崩さないようにそろりと沈水植物を掬い出す。ジャスミン茶に黄金末利の花を散らす動きの手慣れたなめらかさは、角張った顔かたちからは想像もつかないほどだ。ドロハゼの香草蒸しを危なげなくこしらえると、「お待ち」カウンター席に差し出した。澄んだスープの底に沈んだ水花がほろりと花弁を一片ほどいてくつろいでいる。アカリはほくほくしながらスプーンで水花を持ち上げ、崩して楽しんだ。商人というよりもいっそ職人の列に並ぶべき、腕の確かな男である。
残りのドロハゼでアクアパッツァが仕上がっていく様を眺めながら、アカリはふと違和感を覚えて服を払った。何かがまとわりついている感じがする。何だろうと思えば、料理長がじつとアカリの顔を見つめて思案している。まとわりつくのは彼の視線であった。視線をスプーンの柄でくるくる巻き取って、「なんでしょう」アカリは問う。料理に集中しない・させないとは、彼らしくもない。
こっくりと甘い、チーズのとろけたアクアパッツァを小皿によそいながら、料理長がぽつりぽつりと零すことには、こうである。
――昔からの料理人仲間で、さる方の元料理長を務めるコッホという友人がいる。彼がすこぶる不調であるという話だが、味見を請け負ったところ、全く味に衰えはみられなかった。むしろぐんぐんと腕を上げているように思えてならないが、このままでは職と信頼を失うことになるだろう。ひとつ、君が味をみてやってはくれないか。
もにゃもにゃと妙な顔で小骨と格闘しながら、アカリはこの裏クエスト依頼をきき受けた。
「報酬は払う。港町あたりの調味料は、砂漠じゃ高く売れるのだろう」
「よござんす」
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その晩、アカリは鎖をつなぎ終え、染料を届けられるかたちにまとめて瓶詰めした。幌馬車に雑巾をかけ、積まれた本を並べなおすと、そのてっぺんに魔法鉄やガイドブックを乗せる。銅の鍋や薬缶を幌馬車の内側に吊るし、部屋に敷いていたラグを伸べ、固形化された牧草を数えた。ふと思い出して、部屋の壁に平原ツメクサの花冠をからりとかけ直す。
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「前菜を亜鉛のジュレに替えてください」
フルコースをたいらげ、コッホに彼の雇い主の好みをいくつか質問し、アカリが出した助言はてきめんにその効果を発揮した。ひとりの貴族が味覚を、ひとりの料理長がその地位と信頼を取り戻した噂話は、数日のうちにグランノルディカを駆け回り、また喧騒の中に消えていった。しかし、アカリの耳に噂話はまた届かないままである。
商人たちは口々に云う。
「賭け金はどうなってる?出発日は俺の大当たりだ!」
「あと一ヶ月はかかると踏んだんだが…」
「レイニーウィークの予報を見たかよ。きっと雨雲に追い立てられたんだ」
「雨が上がると夏がきちまうからねえ。次の行き先は沙漠だろう?」
がやがやとわき立つ声を聞き流しながら、料理長はもにゃもにゃ苦虫を噛み潰した顔で天井を仰いだ。
(しまったな)
妖精と女の子は、頼られすぎるとどこかへ行ってしまうものなのだ、と。
考え過ぎだ。彼女は青くさい雨の向こう、むんと薫る夏のにおいを嗅いで、あわてただけである。