第12話


 雪原の町も端まで行けば雪山の根元といった方が近かろう。外れの酒場は真白い帽子を揺すぶって、からんからんと鐘の音鳴らす。

 オーク製のドアへぐっと体を押し込むようにして来店したのはアカリ・トトゥルムだ。店主との会話を切り上げ、危うい足取りを黙して見守る。彼女が抱えているのは、町で人気のあぶらパンで、背の高い紙袋に顔まで隠れてしまっていたが、厚手のマントの下、刺繍入りの民族衣装は相変わらずこっくりと赤い。
 10個からしか売ってくれないあぶらパンは通りの屋台で売られている名物揚げパンで、どれもポテトサラダやハンバーグが詰まっているから腹に溜まる。エリスリアもファイファイヘットにねだられたが、小型化していた彼と自分とでは10個も食べきれると思わず、抗議の鳴き声を制して立ち去ったばかりだったものだからよく覚えている。
 カウンターからは椅子に腰掛けていても彼女のつむじがよく見えた。紙袋の陰でこっそりあぶらパンを齧る姿も。

「こんばんは、アカリちゃん」
「むぐ。…ご無沙汰していました、エリスさん」

 隣の椅子を引いてやると紙袋の中身を器用に庇いながら頭を垂れた。背伸びして紙袋をカウンターへ預けるつま先も、よじ登った椅子の下で揺れる短い足も、町中にろう石で落書きしてまわる子供たちとまったく変わりなく見えるのに、背筋だけはしゃんと伸びている。アカリがくるみの商業連合紋章を胸に留めてさえなければ、誰もが彼女をただの子供だと思ったろうし、まして旅から旅の行商人だとは誰も信じないだろう。
 店主に茶を注文づけ、紙袋の口を畳みながら「エリスさんの分はもうありませんよ」そんなことを云うのだから、苦笑してしまう。

 「ところで」と口火を切ったのはどちらが先だったか。
 カウンターの壁を見つめて、互いにふうと澄んだ息を吐く。

「見つかったかい」
「見つかりませんね。そちらは」
「見つからないね」

 妹御は。御家族は。言外に捜し人を指しながら、その話題にはそれ以上の言葉を重ねないのが二人には暗黙の了解になっていた。



 エリスリアがアカリを知ったのは、まだ彼女が商業連合に入って1年ほどしか経っていない時分のことだ。魔法薬の材料を仕入れた帰り、今日のようにファイヘットを入り口に待たせて立ち寄った会館で、人垣の中心に埋もれていたのがアカリだった。離れた席で、面白い女の子がいる、小さな女の子が旅をしているという噂話が耳に入るたび、少しずつ不機嫌になる自分の顔がグラスに映ったことを覚えている。
 ――止めるべきじゃないのか。
 響く男達の笑い声の向こうに、その女の子はいるのだろう。大の大人でも時に名も無き屍になるのが、行商人の常である。その子ほどの娘や妹がいる者だって、一人や二人じゃあるまいに。注文したサンドウィッチが焼きあがるのを待ちながら、眉を顰めて押し黙る。瞼を閉じた彼の意識が会館内の喧騒を俯瞰して離れるようになったころ、彼の椅子の脚にごちんと頭をぶつけた音が響いて振りかえる。一拍遅れて頭をおさえ、しゃがみこんでから「……痛いです」とこぼす女の子は、話題から想像していたよりももっとずっと幼く見えた。



 それからアカリが行商の旅で大陸を一周したことを知っても、風の噂にそれを何周もしたことを知っても、エリスリアが思い出すのはその日の小さなアカリの姿だ。
 彼女が自分と同じく家族と生き別れているらしいことを聞いてからは、互いにあれこれと情報交換する間柄にもなったが、それだけは変わらないままでいる。



 紙袋はじゅわと滲みた油に身を濡らしている。後ろの席で、ひときわ大きく乾杯の声がとどろいた。酒場はそれなりのにぎわいを見せ、店外からは女達の歓声が響いている。
 エリスリアはちょうど切れた煙草を子供の鼻にもやさしい中身に巻きかえて、店先に置いてきたファイファイヘットを追うようにつと視線をそちらへ投げた。いつもなら料理をねだりにくる頃だ。兄貴風をびゅうびゅう吹かせながら、エリスより早く皿をつつきにくるものを、まだ戻らないとはめずらしい。
 しばらくの沈黙(それはアカリが注文した鶏料理の上でぐずぐずになった塩漬け氷雪レモンを潰し、剥がして、ふうふうと冷ましながらたいらげるのにかかった時間でもあったのだが)の後、口を開いたのはアカリの方だった。すっかりあぶらで光った爪を見せつけるように手拭きで拭い、自分でもしげしげと眺めて言う。

「そういや、エリスさんとは長い付き合いですが買った売ったのやり取りをしたことはござんせんでしたね。いかがでしょう、いくらか魔法薬を見繕っちゃくれませんか。わたしはこれから雪山に行くのです」
「雪山に――? 今は冬だよ、ルプスワッカにでも行くのかい。止しておいた方がいい」
「だからこそ需要と、装備を整える必要があるというもので。お代は……エリスさんのツケを帳消しにするので足りますかね」

 焼石押し麦のスープをぐっと飲み干すアカリの隣で、エリスは眉を寄せた。
 アカリとエリスが商売のやり取りをしたことがないのは、つい今しがたアカリ自身が口にしたばかりだ。エリスにツケなどあろうはずもない。「ツケだって?」そう言いかけてから、エリスははっとして店の入り口を見た。往々にして、長く旅を続けられる行商人というのは頭の回転が速いものだ。彼もその例に漏れない。店先で待たせているファイは、何故、まだ自分のところへ来ないのか?
 またひときわ大きな黄色い声が響いて、からんからんと鐘が鳴る。わらわらと入ってきた女性客の隙間から上等の毛皮が――もとい、上等な毛並みのワイバーンが飛び出してきた。いわずもがな、ファイファイヘットだ。あぶらで光る毛を撫でつけて、ふっくら膨れた腹を抱え、機嫌はすこぶるいいらしい。それもそうだろう、その中身は、町で人気のあぶらパンだ!

「…やられたな」
「今後ともご贔屓にどうぞ」

 蒸気にくしゃりと歪んで凹んだ紙袋は随分とそのかさを縮めていた。残りはアカリひとりでも食べきれるに違いない。
 硬い親指をこめかみにあて、エリスリアは深く息を吐く。身体をあたためるような商品はあったか、救難信号代わりになるものはどうだ、毛染め花の薬酒では足りないだろう……つらつらとアカリのための装備を思い浮かべては頭の中で領収書を切った。どうしたってあぶらパンのお代ごときでは足が出るが、しかし。

「どうしても行くのなら万全に装備を揃えてもらうよ」

 足が出た分はまけてくださいと石釜パンを割る客の期待には、到底こたえてやれそうにない。鶏料理の残り汁をたっぷりと含ませたパンは、またファイファイヘットの腹におさまってしまった。

厳雪地域 雪原の町ルプスワッカにて

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