商業連合会館厳雪地域支部にて
第14話
トラパルテーダという村が実際どこにあるのか、彼は今になっても知らないでいる。
山を滑り降りルプスワッカまでほんの数時間(残念ながらこれに掛かった時間も正確なところはわからない。アカリもあの時の自分も時計を持っていなかったからだ。体感では2時間ほどだったように思うが、同乗していた年少の子らが挙げる時間はまちまちで、結局定かではない)足らずだったのは、あのジェットコマティの機動力のなせる業であろうし、父の亡骸が眠る村へ戻ろうという気も起きず、何も調べていないからだ。少年の胸の内で、あそこは過去の村になった。奇想天外な冒険と、父の硬い手の平の感触だけを頭に残して。
ルプスワッカの中心からほど近く、商業連合会館厳雪地域支部の扉を叩いたアカリは、まつげの先まで凍っているらしかった。赤くした鼻の頭は、しばらく雪を溶かさないほど冷たい。荷馬車の奥に押し込められていた少年達はそれほどの凍傷もなく、先頭に立った年少の彼だけが豪速の雪山下りを眺めていたのだ。
アカリの手綱捌きはおそろしく巧みで、ジェットコマティはぐんぐんと風の精にさらわれながら加速していった。
オジジと呼ばれたコマティは余程アカリを信頼しているのか(それか口に雪が入るのに躊躇ったか、風圧で口など開けなかったかだ!)啼きもせず、華麗なドリフト走行で麓に急停止したときにぶるぶると身震いして雪を落としたぐらいの動きしか見せなかったぐらいだ。それでも障害物に当たることもなく、あの速度のそりが馬も乗り手も荷も全て無傷で生還したのは、少年には奇跡のように思えてならない。却って荷馬車の枠の方がきしんで悲鳴をあげていたくらいだ。生きた心地がしなかった、とも。
「ただいま戻りました」
開いた扉から光がもれる。とろりとやわらかい暖炉色の中へ入ると、雪をどさどさ落としたアカリのマントの下で、深い赤色の民族衣装が燃えるようにはためいた。
口数少なく彼女が少年達を迎え入れる手続きを受付に任せると、少年達は商業連合へ引き渡され、アカリはオジジを引いて商館の裏手へと消えていった。後になって思えば、あれは小屋の敷き藁の上へオジジを連れて行っただけなのだが、少年にはアカリに捨て置かれていったような心細さがあって、アカリの消えたほうへ無意識に手を伸ばしていったものだった。
大人たちはこぞって子供たちを暖炉前へ連れて行き、毛布に包んで温かいものを食べさせた。握り締めたボタンの照合を行い、これは何処そこの誰々の子だと連絡にかけずりまわる。年少の子からそうして親類と引き合わされる手はずらしく、少年の順番は最後だった。
芋のポタージュには細切れながら肉が入っていて、熱さに目から鼻から垂れる汁を拭ってがつがつとかっ込み、自分の番を待った。初めに連絡がついた子など、もう祖父母が迎えに来て子供の父親達の死に泣き帰って来た子供に泣きと商館の隅を賑わせている。指のかじかみと震えは、もうすっかり溶けていた。
彼も父のボタンを握り締める。紐を通して首から提げたそれは、アカリによれば商業連合員の身分証明書であるらしい。やっと安心できるのだと、湯気でゆるんだ商館の空気に、彼もそう思っていた。
だからこそだ。ボタンを覗き込んだ大人たちが顔をしかめたのを見て、背筋にうすら寒いものが走ったのを、彼はまだありありと思い出せる。
「……言い難いがよ、坊主。お前の親父さんは天涯孤独の身だ。お前を引き取れる身寄りはいない。おまけに、僅かながら商連に借金があるのさ、商品の仕入れのための――」
スプーンを取り落とすこともできなかった。急に体が凍ったようだ。
「なんですか、みっともない顔ですよ」
「あ、いや……ここに泊めてくれないか」
「構いませんが、ここは馬小屋ですよ」商連は馬小屋だって使用料がかかるのだが、彼はそれも知らなかったものだからアカリの言葉に構わないと肯いてオジジの隣に崩れるように座り込んだ。ふうと聞こえたため息は、アカリのものだったのか、オジジの鼻息だったのか。
「途方にくれるだけの余裕はあるようですね」
アカリが口を開いたのは随分時間が経ってからのことだ。少年はまどろみかけた意識を引き起こして、彼女の言葉に顔を向けた。今のところ、アカリは命の恩人だった。
彼女の手は胸元から細長いパイプを取り出し、ゆっくりと煙草を呑み始める。くゆる紫煙が小屋の床へたまり、夢の続きでも見ているようだ。
「……俺、あの村に戻れないかな」
「棺おけが欲しいのでしたら腕のいい職人を紹介しますよ」
「あんなに生きて帰りたかったのに、戻ってきたらそうでもなかったような気がする」
「おや」
「元手が無くてどうやって働けってんだよ……。保障もなしに商連は金を貸しちゃくれないだろ。それどころか俺は親父が借りた金を返さなきゃなんだ。でも、この気候じゃ、路上暮らしだってもつもんか」
「……」
「あんたに教わった“魔法”の対価になるもんをさ、俺は今、何一つ持ってないんだ。奇跡だって起きねェ筈だよ。おかしいな、俺、親父の後継いで商人になるのが夢だったんだぜ?」
アカリは黙って目を閉じている。寝ているのかと思ったが、寝ていても構うものかとも思った。変に熱い目頭を腕で隠すとアカリはようやくまた口を開いて「まだ云いたいことがあるでしょう」と続きを促した。自分でもびっくりするぐらい、その言葉に本心が引っ張り出される。袖に涙が滲みてきた。
「悔しい」
「……」
「悔しいよ。親父が今まであんなに汗水たらして商売して、歯ァ食いしばって生きてきたのにさ、それが全部無かったみたいに扱われて、俺はそれが悔しくてたまらないんだ。なあ、あんた。俺はどうしたらいい。どうすれば俺は親父を認めさせられるんだ」
「……まあ、まずひとつは、君自身が強くなることでしょうね」
そのままアカリはぽつぽつと助言を落としていったらしかったが、泣きつかれた少年がどっと押し寄せてきた疲労と眠りの精に引きずり込まれていくなか、拾えたのは「商館前で下働きでも願い出たらどうです」という一言きりだった。
それからというもの、身寄りの無い子供が商館の扉を叩くと、決まって最初に見つけるのは少年(と、呼べる年齢でもなくなってきた)の仕事になった。何故か。彼は商館の下働きとして雇うよう死に物狂いで食らいつき、返してもらいたい金のある商連はそれをあっさりと聞き入れたのだ。彼が青年となって商館つきの傭兵となってもそれは続いた。
巡る季節とともに訪れるアカリに彼は何度か弟子入りの志願をしたものだったが、「泣き虫は御免です」だの「弱い男は御免です」だのとあしらわれ続けたことは商館の語り草だ。彼女の実年齢を小耳に挟んだ彼が「ババア」と呼ばわりしたのが原因だと、当時を知る者は笑うわけである。
「そういやあのババ――、アカリも俺みたいに商連に来たことがあったのか」
「なんだゼルトナ、そりゃ当たり前じゃねェか。あったさ。俺は昔グランノルディカの商館にいたからようく知ってる」
それきり酒を煽った古参の獣人に、青年ゼルトナは財布の中を確かめてから金貨をひとつ投げた。獣人は酒に濡れた髭の間から歯を見せて笑うと続きを語る。
「凍えた星でも降ってきそうな夜だった。あの子はコマティを引いて、変わった格好で歩いてきたのさ。民族衣装の上から家中から持ち出した布を巻きつけてさ。それから、『わたしを買ってください』と、こう言うんだ。おい、汚ェぞ噴いたら拭けよ!あの子の腕を買えって意味だ!で、あの子は商人になった。元手はコマティに背負わせてきた刀や楽器や、残された家にあったものありったけよ。」
「……それじゃ、路頭に迷ったりはしなかったのか」
「あの子の運のいいのは、連れてきたのがコマティで、ここが商業連合だったってことだ。今となっちゃもう姿も見ないが、昔はコマティさえいれば商売が始められたのさ。あの子が商業連合がくるよりずっと昔の話だったけどな。爺さん婆さんが世話焼いてよ。だから魔女さまに顔向けできないような売りはやらなくて済んだ」
「あれにもそんな時代があったんだな」
今も昔も、商業連合に入るものには身寄りのない者が少なくない。
冒険者協会やほかの場所に頼らず商館の戸を叩く彼らには決まって共通点がある。
「そりゃそうだ、俺達には金が要った」
獣人はにやりと笑って酒をあおった。
「それよりも」と続けるゼルトナは煙草をやっている。火をつけると、今より少し大人になったような気になった。彼女のようにゆっくりとくゆらせながら、青年は呟く。
「いつまで経っても、あんた達にはアカリも『あの子』扱いなんだな」
吹雪はごうごう、声を立てて笑っている。