第16話


 草原の風はするりと肺腑に凍み、未だ太陽の昇らぬ平野の朝を知らせた。靄を吸って僅かに重みを増した被衣の内側がこれをはらんで、ついでとアカリの頬を撫ぜ往く。

「オジジ」

 つい今しがた抜け出してきたばかりの身とは違って、テントは夜霧に浸かり、色まで変じていた。幼い手が濡れるも構わず、アカリは窓を叩く。この集落でも郡を抜いて大きいテントには、入り口のちょうど真裏に窓まであった。大きな車輪付の台に乗り、コマティが三頭立てて運ばねば動かない大テントは、まさに部族の長のものとしてふさわしい。実際、其処に寝起きするのはトウカ族の首領である。

「オジジ、オジジ。アカリが来たよ」
「む。……アカリか!どうやって来た!」

 響く老爺の声が、テントの布を震わせるたび、細かな夜露の飛沫が散った。「うるさいよ」不平を洩らすアカリには首領へ払うべき敬意が些か欠いていたが、太い指が窓を捲くると、現れた顔は厳めしい造りの目尻をめいっぱいに下げている。「首領と呼べ、首領と」とは言うが、「アカリにはオジジだもの。可愛い孫が訪ねてきたよ、入れてよ」そう両手を伸べる孫娘を引き上げる腕は、とても拳固の形になりそうもない。

「ロイヒ号の背に立って窓を叩いたか」
「そうだ、ロイヒが乗せてくれた。アカリが可愛いから」
「ロイヒ号はアカリに甘い」
「ロイヒはアカリに優しいよ。オジジもアカリに優しい」

 そう言って窓外のコマティに手を振れば、彼も彼女に応えてか、尻尾をぴしゃりと打ってから、その場に寝そべった。帰路の世話もしてやるつもりだろう。アカリ・トトゥルムはコマティにとっても、トウカ族の可愛い末娘なのだ。
 トウカ族は血を同じくするニンゲンの部族だ。ひとつの集落がひとつの家族であり、全ての集落が兄弟である。平原地域を転々とするのは、そうでなくてはトウカ族全体の食い扶持を維持出来ぬからであったし、そこらの町には収まらぬほどの大家族だった。それがこの数十年余りというもの、年を追うごとに赤ん坊は減っていき、首領の孫と呼べるものは僅かに二人だけである。それも女孫の方となれば可愛がらない道理はない。
 従兄妹でありながら双子のように瓜二つの孫も、男孫の方は首領の血も濃く武芸に秀で、勇猛果敢な戦士となるに相違なかったが、女孫のアカリは刺繍に機織ばかりしか特技もなく、何より足が悪かったから殆んど家から出さなかった。ニンゲンの身ながら戦いに生き甲斐を見出し、火と共に苛烈に、風と共に速く駆けることを是とするトウカ族にあって、これほど憐れなことがあろうか。

「…アカリの布は売れるかな」

 ぽつりと溢す声は、夜の中にしんと積もった。来訪の理由はこれらしい。
 首領は己の掌におさまってしまう孫娘の頭を撫ぜると、努めてやわらかく「売れるさ」と言ってやった。 「売れるさ。何なら、商隊のところまで、オジジがアカリを連れてってやろう」「アカリは家にいなくていいのかな」「オジジがついていれば、アカリの足が悪かろうが、何処へ行こうが事無かろう」「そうか」
 実際、アカリの織る布は歴代随一の腕前を誇る初代のそれにも匹敵した。身内の欲目抜きでも大した出来栄えで、交渉役が張りきっているのを首領も知っている。それでも、この孫娘にとっては初めて一族へ貢献できる機会なのだ。成否を案ずるも無理はなかろうと思われた。

「寒いか」
「オジジ、これは武者震いだ」

 抜かれた天蓋からしらじらと星の光が降っている。
 アカリはこの日も泣かなかった。

アカリ・トトゥルムが旅立つ前 かつてのトウカ族集落にて

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