第2話

「おや、もう出来た」

 オジジの鞍に程近い場所へ結びつけた瓶は、牛の乳を振ったにしてはやや重い音でとぷんと鳴った。アカリがその内の一本を開封すれば、酸味のあるまろやかな匂いが鼻に届く。発酵したのだ。
 コマティは、恵みの精霊に好かれやすいという。
 精霊が落とした種は、時にパンをふくらませ、時に果物を酒にかえ、時に牛の乳を発酵させてくれる。町々のパン屋も、竈を守る火の精霊の他に、この恵みをもたらす精霊たちと契約しなければ繁盛は出来ないのだ。人の営みになくてはならない、けれど気まぐれなものが多いこのような精霊たちを、一部の部族では"恵みの精霊"と呼ぶのである。

「有難いね、オジジ」

 朝一番の乳を入れた瓶を荷台の奥に乗せなおし、アカリは商品作りの功労者をかいてやった。オジジの横顔をきらきらと輝くものが過ぎった気がして、軽く手を振って見送る。
 前の町を出立して半日ばかり。上空を飛雷千鳥の群れが黒々と覆い、雷雨の足踏みが低く低く轟き始めた昼下がりのことである。


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 相も変わらず鈍足のコマティにまたがって、アカリ・トトゥルムがその寺院に辿り着いたのは、もう夜半をまわった時分のことである。

 天高く夜の帳が揺れるたび、金銀すなごと星々が瞬いた。その煌めきが寺院のかがり火に、まるで鋳溶かされたように陽炎と消える。アカリはそっとカーバイドランプを止めた。舞い散る煤は、ひらひらと視界を掠め、やがて地に落ちてゆく。
 人間の老爺がアカリの荷馬車へと駆け寄ってきたのが、ちょうど、火を消さんとかざしたランプのアセチレン光がひと際大きくふくらんだ時だ。お互いの顔を視認し、目当ての人物とあたりをつけ、軽く会釈を交わす。
頭をまるめた老爺は、後ろにそびえる寺院の最後の僧侶である。

「遠いところを遥々やってくるというから、どんな屈強な商隊かと思えば…やあ、これは可愛らしい商人さんだ」
「屈強でなくてすみません。でも、オジジの仕事は確かですよ」
「ええ、ええ、そりゃ嬉しいことです。こんな寺院にまで足を運んでくれるんだ、慈悲深いコマティ商さんですよ。さ、お上がりなさい」


 「どうも」アカリが深く頭を垂れるのを、孫でも訪ねてきたかのように鳶色の目を細める僧侶は、実に好々爺然としていた。
 手をかける、昼間見れば色とりどりに塗られていたであろう壁は、しかし、夜でなくとも褪せているようだ。

 そう、アカリは、この古びた寺院に眠る品々を買い取りに来たのである。

 ミセラニシア各地には五大魔女以外の信仰を掲げる寺社仏閣や教会の類が存在している。精霊を崇拝する者、架空の神に縋る者。個人の信心は至極様々である。だが、アカリがこの寺院について知っていることといえば、数百年の歴史があること、信者も減り僧侶も減り、最後に残った老僧が蔵の整理をしたがっていることくらいで、それもほんの数日前に、前の町で知り合った商人に教えてもらったばかりだった。
 「儲けにはならないと思うけど」アカリの旅の目的を話せば、彼は顎鬚を掻きかき、そう前置きして寺院への地図と手紙を描いてくれた。

「飛雷千鳥にはやられませんでしたか」

 オジジを明るい寺院前につなぎ、旅装を解いてひと息つけば、老爺はアカリに熱い湯に漬けて絞った布を手渡して世間話を切り出した。朴訥とした喋り方の中に、説法慣れしたらしい愛嬌がにじむ。

「この辺は空気も乾いているもんだから、パチパチとよく囀るんです。まあ、その分、黴も生えず保存状態は良いものをお譲りできると思いますよ」
「楽しみです。――こちらですか」
「そう、この奥になります」

 若い娘さんに踏んでもらえるなんて、この床も久々に嬉しそうですと笑う声には、アカリも不快さを抱かなかった。もっとも、年頃の娘なら一も二もなく飛びつく恋愛譚にも耳遠く、嫁入り話の入る前に家を出たアカリが、男性に不快感を与えられたことは今まで一度きりもなかったのだが。おまけに、オジジにべったりの彼女は、"おじいさん"というものに弱いのだ。
 老爺が箸のような杖先に光魔法をともす。
 寺院の多くは、火の魔法や光魔法を研究し、その成果で人々を惹きつけるのだとアカリも以前本で読んだ。だから、精霊と契約するそぶりも見せず行われた魔法にも、当然のことのように「あったかい光ですね」と目を細めるだけである。老爺はまた、からからと笑った。

「そうです。あったかい、一昔前には有難い光ですよ。…お嬢さん、寺院の買取は今回が始めてかな」
「二回目です。でも、若い娘がひとり旅をしていると、各地の慈悲深い方々は、こっそり光魔法を教えて加護を授けてくださいます」
「そうか、そうか。それなら、珍しくもなんともなかろう。如何に埃っぽくても、魔法はモストロ避けになるからね」
「うん。わたし、光魔法は好きです。モストロ避けの香草はみんなばかに高価だし、オジジの鼻が曲がっちゃうもの」
「そうか。わたしも大好きです」
「それに、坊さまのはやっぱりあったかくて、よい光だと思います」

 ひとつ、老爺は息をつまらせてから「有難う」とだけ微笑んだ。

「着きましたよ」

 老爺が杖を壁のくぼみに差し込むと、褪せた布や曇った金属の器が整然と並べられた蔵が闇にぽっかり浮かび上がった。
 何時になく機敏に動いたアカリの視線は、隈なく蔵全体を奔り、書物の積まれた一角を目ざとく見つけると、とっとと身軽そうに駆け寄った。風の精霊を拝んで、唱え慣れた紙類保存の魔法を吹きかければ、本の虫がぱらぱらと離れていく。
 そのまま「鑑定します」と脇目も振らず紙束を抱えて座り込んだアカリに、一拍置いて、老爺は小さく「聞いていた通りの商人さんだ」と独りごちた。杖灯かりが大きくなるよう調整してやる。黒曜石の瞳が、光魔法を文字と吸い込む。

 さて、アカリが次に顔を上げたのは、アウィスの遣いが啼き始める頃のこと。

 書物を読みふける内、何時の間にか置かれた乳粥独特の臭みに思わずくしゃみが漏れた。まだ"鑑定"が済んだわけではない。日頃なら、滞在先の町村全ての書物を読みきるまで止まらない象牙色の指をはたりと休めたのは、大陸中の子供が一度は目を通す、見覚えのある表紙である。

 振り返ると、すっかり旅支度を整えた老僧が、旅の資金を待ちくたびれているところだった。遠くでオジジの切なげないななきも聞こえる。「しまった」またやった、との反省は口内にこもって消えてしまった。まあ、年寄りの広い心で許して欲しい。
 声にならない音を拾って、老爺は困ったように痩せた首をかきかき、「それでどうだろう、幾らになりますか」と書物にとり憑かれた商人に問うたが、彼女が抱えたものを見とめて訂正を入れた。「旅に、重い紙など邪魔になるかと思ったが…ああ、それはいけません。それ以外はお売りしましょう」

「あ、こちらは売っていただけないんですか。他はどうですか。何か、売れないものは…」
「そちらと、この枯れた命ひとつきり以外はお売りしましょう。そこここの、紙以外で出来たものも、まあ気が済むまで御覧なさい」
「そうですか」

 「そうですか」相棒の嘶きがもうひとつ聞こえて、ようやくアカリはよろめきながら立ち上がると、めぼしい金品に値をつけ、フィル金貨を三枚と鈍った銀貨四枚、銅貨二十一枚をうたった。

「毎度どうも」

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 随分待ったらしいオジジの頬にちょんと唇を寄せ、荷台に十数点の書物と古美術品、値打ちのわからぬまま二束三文で買い叩いた宝物を詰め込み、汗をぬぐうとねっとりと、煤が額に広がった。
 互いに合掌して別れれば、かの旅僧はしゃんと背筋を伸ばし、しっかとした足取りで荒地目指して遠のいてゆく。
 それからしばらく、(とはいえ、コマティの歩みと老人のそれとではまだそれぞれの姿が見えるうちに、)アカリはどうしてもむずむずとして、とうとう大きな声で問うてしまった。

「あの!」

 平原地域に娘の声がこだまする。荷台越しに、二対の目が合ったような気がした。

「あの、どうして、あれだけは譲っていただけなかったんです?」

 旅僧は、逡巡する様子もなく、よく通る声で返した。アカリが彼の声を聞くのは、後にも先にもそれきりである。


「――…そりゃあ、初恋のひとは譲れませんや」


 たまらなくなって、買いそびれた書物の表紙にたたずむ五大魔女のように、アカリも笑ってオジジをぎゅうと抱きしめた。

 蒸気都市は、まだ見えない。

ミセラニシア大陸 草原地域のある寺院にて

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