グランノルディカにて 中編
卯乃花さん宅 ハイネケンさんをお借りしました
第5話 中編
「ご馳走様でした、と」
会館を出ると、アカリの乾杯前にそそくさと退館していった女商人たちも「目が醒めたわ」「やるようになったじゃないの」と手を振りながら、商会裏手の荷揚げ場まで、今や珍しいコマティを見に行くところだ。ついでとばかり、幾人か捜しびとについて訊ねれば、今度こそ会館へ用は無しとばかり、アカリは一路、グランノルディカ市街をまた歩き始めたのであった。
「――なるほど、それで土熊亭まで辿り着いたということですね」
「そうです、そうです。でもまさか、ついでのついでに訊いたハイネケンさまのお名前が、こんなところで打って響くとは思いもよりませんでした」
「私だって、何も常に各地で冒険してはいませんよ」
むしろここ二十年程は都市暮らしです、との森エルフという種族への認識を揺るがしかねない一言は、たまたまハイネケンが自身のジョッキを覗き込んだために、幸い発せられることはなかった。よくよく気をつけて、伝票札が入れられていないことを確かめると、夜の始まりにふさわしい一杯を優雅に飲み下す。
隣でアカリも、優雅ともとれるペースで茶を飲んだ。いつからお昼が終わったのだろう。
また顔を見合わせる。
「何年振りになりますか、アカリちゃんも随分大きく…大きく…」
「少しはなってますよ」
「大きくなりましたね」
「有難う御座います。ハイネケンさまはまるでお変わりありませんね、お達者なようで何よりです」
さて、アカリがハイネケンに敬意を払うのは、何も彼が古から続くエルフの血筋だからというわけではない。彼が、アカリにとって、いわゆる恩人のひとりであるからだ。
目を細めて記憶を辿れば、討伐対象の巨ラムートンを、彼の弓が射抜く様まで、アカリはありありと思い出すことができた。かつて、アカリがまだ商業連合にも属さない、それどころか駆け出しの商人でもない、まだ幼いばっかりの草原の民であった頃、遊牧中の集落を襲わんとしたモストロを倒したのが、たまたまそれを追ってきたハイネケンだ。アカリの家を一歩で踏み壊した一角羊は、部族総出で解体され、英雄の狩人をもてなす宴で振舞われたものである。
運がよかった、とアカリは思う。わたしの集落は、運がよかった。比較的平穏な平原地域であっても、モストロの襲撃で潰れた村々の話を、アカリは何度も耳にしてきた。もちろん、他の地域なら尚のこと。
それにしても、ああ、あの頃、皆で囲んだやぐらの炎の、何と大きかったことか!
「それで、保護者の方はどちらに?まさか迷子ではありませんよね、グランノルディカは草原地域より、ずっと治安が悪い。この酒場の安全性は太鼓判を押しますが、明るくたって子供が夜の一人歩きではいけないよ」
「それがですね、ハイネケンさま。今、トウカの一族はわたしひとりっきりでして」
飛雷千鳥の串焼きをつつきながら、まるで世間話のように言うアカリの声に、厨房の奥で何か取り落としたような音がした。ハイネケンも、妙なものでも噛んだような顔をして、柳眉をひそめている。
おや、何か酒が不味くなるようなことを言ってしまっただろうか。アカリはううんと一声うなってから、言い直した。「解散です。自由解散しました」
「別段、滅んだわけでも、何かあったわけでもありません」
「は、はあ…。それは、あれですか。貴女が集落から離れて独り立ちした、ということですか?」
「ううんと、少しばっかり違います。独り立ちはしているんですが――…トウカ族の集落は、もう無くなってしまったんですよ。自然に、気付いたらゆるやかに解散していて、わたしもちょうど家を出られる頃に、みんなして何処かへ行ってしまったんです、段々と」
「…ほ、ほう」
「元々が草原の各地へ遊牧していた我らだから、何とはなしに別の場所へ移動してったのじゃあないかなあ」
「……」
「言ってみるなら、わたしの家族は今頃みんな『はらいそ』に居りますよ」
おお、はらいそ。
いつか本で読んだ、それは黄金郷の名前である。その地の草を食めば、コマティの毛も黄金に変わるという。
実在するかも定かではないこの都を、アカリは家族についてたずねられるたびに口にしてきた。やれ寂しくないのかやら、身内が恋しくないのかやら、こんなお嬢ちゃんが(まったく失礼な話だ、アカリは自分がもうそう言われるほど子供ではないと思っているというのに!)保護者もなしにいるのはよろしくないやら、何度も聞かされてきた言葉の雨は、皮肉でなく心から有難いが、アカリが彼らに理解してもらえる答えをなかなか返せないからだ。
はらいそを死後の世界と捉える者も少なくはなかったが、特に訂正はしなかった。もはや生死も定かではないが、運がよければ逢えるだろうし、そうでなくとも、アカリにはオジジがついている。
すっかり静まり返ってしまった酒場に、厨房で皿を磨く音だけが響いている。優しいことを言われる前に、軽く咳払いをして、またアカリは口を開いた。
「ところでハイネケンさま、わたし、ひと探しをしているのですが、よろしければご協力いただけませんか?」と。