第5話 後編


「げ」
「あ」

 ご無沙汰しました、ユノさん。アカリがゆっくり下げた頭を戻したころには、いま挨拶しているはずの相手の姿はもうなかった。商業会館での出来事は、一昼夜にしてグランノルディカの商人たちへと知れ渡っていたらしい。
 しかしながら、彼女に逃げられてしまっては困る。大事な商談があってきたのに。
 ぽつり、呼び戻す意を込めて、ため息混じりに掛け金取立ての話ではないのにと、小さく呟いた。

「今日はユノさんの借金取りじゃあありませんよう。グランノルディカを出るときに、またトットを一羽とオジジの世話をお願いしたくて」
「あら、そうならそうと早く言いなさいよ!」

 即座に返ってきた返事とユノに、アカリも思わず「速いですね」と目を丸くして感心してしまう。「あんたに比べりゃ誰だって速いわよ」いいえ、お金がかかっているときのユノさんは誰より速いです、とは言えない。

「それで予算はお幾らかしら?うちに声を掛けるくらいなら相当景気が良いんでしょうね、わたしもあんたの金払いの良さだけは認めてるんだから」
「はい、はい。たまたまお会いした義理人情に厚い恩人さまが情報提供してくださって、昨晩も今朝も、借金回収でたんまり稼がせていただきました」
「…ね、アカリ。知らなかったと思うけど、あんたが不在だったこの二年で、うちのトット料金も大きく変わったの」
「わかりやすく暴利をむさぼろうとしないでください、ユノさん」

 身を乗り出してきたユノに、大金貨入りの皮袋を懐にしまい直す。くわばらくわばら。確かに、アカリは昨晩突然の好景気に見舞われたが、この牧場主の前でだけは隙を見せられないようだ。

 ――さて、ここからは少し遡って、昨晩の話の続きである。
 アカリ・トトゥルムがハイネケンへ依頼したのは、何を隠そう、借金取立ての情報提供であった。
 ところで、アカリは商人として各地を周りながら、仕入れた商品を、客の金銀銅貨と交換することで生計を立てている。これは殆どどの商人も行う商売の手順だが、アカリは他に、めずらしいやり方をする時があった。手持ちの金がない、いわゆる行き倒れや強盗の襲撃にあった者などに、ぽんと後払いで商品を売ってしまうのである。
 無論、これは相手の返済能力もわからず保障も無いまま行うべきではない取引方法だ。だからこそ、アカリのような一介の行商人は、よほどのリスクを負ってでも稼がねばならない儲け話か、そうでなくても相当用心しなければ、後払いなどさせないものである。
 にも拘らず、彼女は時々、追い込まれた人間にも物を売ってやっていた。そして、無利子での借金からかなりの利益を上げるのだ。それは何故か?――彼女は、借金取りとして非常に優秀だったからだ。
 相手を恫喝するわけでも、呪うわけでも、ましてや暴力にうったえるわけでもない。コマティに乗った(あるいは降りていても)遅い歩みでも取り立てに追いつける相手は、アカリに感謝して余計に金を支払ってくれるほど余裕があるか、明日にも首を括るほど、つまり最期にアカリへ遺産をぽんと寄越すほどに追い詰められている者しかいないのだ。回収のタイミングが良いのである。
 ともあれ、突然の再会と昔話、それから持ち前の多種族への優しさと酒の勢いでもってアカリの頼みを快く引き受けてくれたハイネケンは、グランノルディカにいるであろうアカリの客の情報を調べ上げるどころか、何を思ってか彼女の前まで、時には血の気の多い手段でもって連れてきてくれたのだった。
 借金回収のために、という名目を伝え忘れたのがよかったのかもしれない。あの会話の流れから「ひと探し」とくれば、勘違いするのも当然至極である。
 そんなわけで、無事、羽振りがよくなった盗賊団の頭領と、大店(おおたな)のご隠居から気前良く借金を返済してもらい、多少を「お小遣い」として他に貰ったアカリの懐は、金貨がじゃらじゃらいうほど潤っていた。持ちきれない分は、いつものように商業連合の銀行へと預け入れたが、それでも皮袋はまだ重い。

「大体ユノさんも、二年前はあれだけ稼いでらしたじゃないですか。トットレースの賞金はどうしたんです?」
「牧場経営なめるんじゃないわよ。あれっぽち全額牧場の修繕費と餌代に消えたに決まってんじゃない!」
「…みんな食べ盛りですねえ」

 多かれ少なかれ金にがめつい商人としても、眼前の少女は、金に頓着しないアカリと足して割ってちょうどいいのではないかと思われた。が、それにも理由はあるらしい。
 二年前に出した金額を頭に思い浮かべながら、アカリは皮袋の中身が前払いにちょうどいい額があるか丁寧に確かめて、ユノに手渡そうとした――まさに、その時のことである。「あ」「あっ」金貨袋が、消えたのだ。

「ど、泥棒!あたしのお金よ、誰か捕まえてー!!」

 手のひらを握ったりとじたりを繰り返そうとしたアカリがはっと我に返ったのは、ユノが即座に上げた大声に反応してのことだったから、かなり早かった。
 まだ完全にユノさんの手に渡っていなかったのに、と、両者がしっかりと手を添えていた数秒前はここにあった皮袋を思ったが、アカリがそう口に出さなかったのは懸命な判断といえるだろう。取り逃がしたら、きっとユノにそこを突かれる。残るのはアカリの損害だけだ。
 そこまでのことを果たしてアカリが考えてから手綱を取ったかどうかはさておき、カカッと靴を鳴らして鐙(あぶみ)を踏むと、手慣れた動きでユノのトットへ飛び乗った。空いた片手で手早く沙漠越え用に買ってあったゴーグルを下ろし、装着した。

「ユノさん、借ります!タダでいいですね!」
「いいからとっとと行きなさい!取り逃がしたら明日の朝までにボーンズの餌よ!」
「グェッ!?」

 トットタロットの尻へ一撃。ユノの盛大な蹴りがレース開始の合図だ。
 ぎゅっと握りなおした手綱を繰り、驚いたトットを制御する。ゴーグルの下で、アカリの目が平素と違う色を帯びる。コースは市街地型、グランノルディカの踏み固められた足場は悪くない。ぺろりと風切る唇を舐めた時には、トットの足が壁を蹴って逃走者の駆けた方へ飛び上がっていた。ぶん、と、また風の精霊が驚く音が耳を過ぎった。勘は鈍っていないらしい。速い。アカリはまた手綱を引く。もう逃走者の尻が見えた。常習らしく、風の精霊の加護を受けた靴を履いているようだ。泥棒というよりは、盗賊風でもある。

「いい子。速いね」

 トットの首を撫でてやる。
 振り向いた、逃走者の女が驚いた顔をしているのが、まるでそこだけ時間が止まっているようで、思わずアカリは微笑んだ。草原を駆けた騎馬民族の血がうずき、背筋をぞくぞくと冷たく上がっていく。逃走者の口角もついと上がったように見えたのは気のせいだろうか、なかなか張り合う相手がいなかったであろう俊足だから仕方が無いか。まばたきもせずにアカリとトットは追いすがる。屋台を過ぎざま逃走者が投げた林檎は、手綱を引き身をかがめて避けた。もったいない。
 またトットが地を蹴る、壁を蹴る。世界はアカリとトットを中心に回っているようだ。日頃のアカリを知る(ユノ以外の)商人達が、今の彼女を見ても、きっと誰だか信じられないに違いない。ゴーグルを持っていて、沙漠越え前でよかったとアカリは思う。駆け抜けるトット乗りのアカリを指差して、人々が口々に叫んだ名前はアカリ・トトゥルムでは勿論なかった。

「――ロイヒだ!」
「おい、ロイヒだぞ!疾風のロイヒだ!」
「今日はトットレースなんてあったか!?二年ぶりじゃねえか!」
「ロイヒ!ロイヒ!」
「でも何で走ってるんだ?」
「どうでもいいでしょそんなこと!…あ、誰か追ってる!」
「ロイヒ・トトゥルムがグランノルディカに帰ってきたぞ!」

 ロイヒ・トトゥルムとは、四年前に突然現れ、二年前に姿を消した神出鬼没の名騎手の名である。より正確にいえば、『二年前に姿を消した神出鬼没の名騎手としてのアカリの名』である。
 「あの頃は随分荒稼ぎしたっけなあ」しみじみと呟く声だけが、ゆったりと間延びしている。昔の悪戯を思い出されて恥じる子供のような声色だ。草原の遊牧民、騎馬民族のトウカ族は、人間の身でありながら、コマティ以外の手綱を取れば、風より速いという。アカリは、その血を引いているのだから、優勝ぐらいは当然なのだ。
 カーヴに差し掛かり、ぐいと全身で手綱を引き上げると、トットはまた宙へ踏み出し、壁を蹴って曲がった。家の窓から、住人の驚く顔が見えた。

「ロイヒ・トトゥルムですって…?」

 ぽつりと逃走者が呟いた声は、たまさかアカリが追い越したのとは別の風に乗って流れ去り、彼女の耳が拾うことはなかった。
 トットが家の壁を、ほとんど垂直に駆け上がる。逃走者へ影が落ちる。トットが壁を蹴る。――とうとうアカリの繰るトットは、上空から飛来して逃走者の前へと先回りし、その行く手を阻んだのである。彼女が反対側へ向き直るより早く、トットのくちばしがその靴を啄ばんで再逃走を阻止した。

「さあ、追い詰めましたよ」

 じきに、ここは追いついたロイヒのファン達によって囲まれるだろう。周りの人々はまだ、突然現れたトット乗りの正体に気付いていないようだったが、なんだなんだと露天から顔を上げ、こちらを見るものが多い。
 少女の正体がばれるとまたやっかいなことになりそうだ。声を出さず、しかし「返してください」と言わんばかりに、アカリはぐいと騎乗したまま手のひらを、もはや逃走できなくなった盗賊の女に突き出した。

「あらら、随分ピンチみたいね…」

 観念したのか、女は大きくため息を吐いた。そこで色っぽいなあなどと思ってしまうほど気が緩んだアカリに相手が気付いたかどうかは知れない。が、腰から盗み取った袋を外し、アカリへと投げて寄越し、

「――でも、甘い!」

 ばっとアカリの顔へ空いた手を伸ばして、そのゴーグルを剥ぎ取った。見事な手腕である。

「わあっ!」

 思わず手綱から手を離してしまい、トットが泥棒からくちばしを離して啼く。そのままアカリが振り落とされなかったのは、さすがマクスウェル牧場で仕込まれたトロッタロットといったところだろう。

「アタシもね、ロイヒのファンだったの」

 耳元で、ひらひらと赤い唇が開いた。
 ぽんと叩かれたアカリの肩に、風の精霊の加護で軽くなった女の体重が加わったかと思うと、とうとうそのまま、アカリが足を外した鐙を一踏み、ぽおんと飛び上がっていくのをとり逃してしまった。

「ロイヒ・トトゥルムって随分可愛らしい顔をしていたのね!」

 通り過ぎざまに聞こえた声に、アカリは慌てて場を後にするべくトットを起こす。じきに、ここは追いついたロイヒのファン達によって囲まれるだろう。
 金貨袋の中身を確かめながら、とりあえずユノさんに餌にされずにすみそうだよとトットの首を撫でてやると、トットも安心したように啼いた。

「それにしても、都会は草原よりよっぽどか恐ろしいねえ」

 アカリの声だけが、ただただゆっくりその場に残って、消えた。蒸気都市グランノルディカの喧騒の中で。

グランノルディカにて 後編
卯乃花さん宅 ユノさん・バドさんをお借りしました

go page top